普遍的管轄権という原則が、ヨーロッパのある法廷で今まさに試されている。オーストリア当局が2025年に起訴したのは、シリアの一般市民として欧州に潜伏していた元将校2名。アサド政権下で行われた組織的拷問に関与したとされ、これはオーストリア史上初となるアサド政権関係者への戦争犯罪訴追だった。
欧州の住宅街に潜んでいた「元将校」の正体
2人が逮捕されるまで、近隣住民には普通のシリア人難民に見えていたらしい。内戦を逃れた移住者として生活を送り、長年にわたって身元を隠し続けていた。それが崩れたのは、同じくヨーロッパへ逃れてきた拷問の被害者たちが、欧州当局に証言したことがきっかけだったという。
アサド政権戦争犯罪の訴追は、ドイツでも先行事例がある。2022年にはドイツの法廷が元シリア諜報員に終身刑を言い渡した。ただ、今回のオーストリアの裁判が際立つのは、拷問を直接訴える被害者が証言台に立ち、加害者と同じ法廷内で向かい合うという構図にある。加害者の顔を見ながら何が行われたかを語る——そういう場が実現したこと自体、異例中の異例といっていい。
「アサド政権幹部を対象とするオーストリア初の裁判は、拷問を訴えるシリア人証人たちが、告発した2名の男と直接対峙する稀有な機会となる」(The New York Times)
「普遍的管轄権」がなければ、この裁判は存在しなかった
シリア拷問訴追をオーストリアが行える法的根拠が、まさに普遍的管轄権だ。戦争犯罪や人道に対する罪については、犯罪が起きた場所や被疑者の国籍に関係なく、発見した国が裁くことができる——という国際人道法上の考え方である。
これが機能しなければ、加害者は「逃げた国で暮らし続ける」だけで罰を受けない。欧州各国に流入したシリア難民の中に、加害者側の人間が紛れ込んでいたという現実は、移民政策と人権問題が交わる難しい問いも突きつけている。オーストリア当局が今回動いた背景には、市民団体や被害者支援グループの長年にわたる記録活動があったとされる。
シリアでは今も数十万人が行方不明のままで、拷問施設の全貌はほとんど明らかになっていない。「シーザー写真」として知られる、収容者の遺体を撮影した約5万5000枚の画像が2014年に流出して以来、国際社会は証拠の重さを認識しながらも、政治的に踏み込んだ訴追はごく限られてきた。
この先どうなる
今回の裁判の判決次第では、他のヨーロッパ諸国でも同様の訴追が加速する可能性がある。スウェーデン、フランス、スイスでもシリア関連の戦争犯罪調査が進んでおり、欧州全体が「域内に潜む加害者」を法的に問い詰める動きを強めつつある。ただ、被疑者が逃亡・偽装するリスクや、証言者への報復リスクも残る。普遍的管轄権が絵に描いた餅にならないためには、証人保護と各国間の司法協力がどこまで機能するかが鍵になりそうだ。アサド政権が2024年末に崩壊した今、新政権の協力を引き出せるかどうかも、今後の訴追の広がりを左右するじゃないかと見られている。